・「高浜市」の守り神「衣浦観音」について
・「観音寺」の由緒
今回の記事は、愛知県高浜市にある「観音寺」と境内に建立されている観音様の立像「衣浦観音」を紹介していくぜい。
小さな佇まいのお寺ですが、このちんまり感がとーってもいい感じっ!
観音様の立像や、貴重な歴史資料などもあって見所満載です。
この「観音寺」は少~し高台にあります。
その麓に「鬼の道」と名付けられた散策路があって瓦で作られた鬼のモニュメントが点在してます。
なのでそれらを探して歩くのも楽しいですし、すぐ近くに美術館もあり、美術館の中にはカフェもあって色々な楽しみ方ができますよ。
お寺のご利益を得たい方、静かに流れる時間のなかで日常の喧騒から離れて癒されたい方、一度訪れてみてください。
この記事を書いたのは↓
改めまして、籏山 隆志(はたやまたかし)といいます。
勤続40年+αの勤め人です。
このまま勤め人として人生終えるなんて、まっぴらゴメンの助!とばかりに60歳からプロの画家の画家Gさんです。
ではでは、楽しんで頂ければ喜びです。
ぜひ最後までおつきあいください。
↓初の電子書籍出版です。ぜひ、読み放題でどうぞ。
高浜市の守り神⁉️
美人?の観音様が見守る「観音寺」
アクセスアップ
おおっ!こちらの観音様、美人さんではあーりませんか
優しいマナザシ、穏やかな笑みをたたえた唇。
して、その法衣の中はきっとたおやかな肢体をしておられ・・・
これ、そこのそなた!神に向かってナニを欲情しておるのじゃ。
そなたには御利益でなくバチを与えたもうぞ‼
な~んて、怒られそう。
ひぇぇぇぇ~、どうか御勘弁を!おねげえしますだ観音様っ!
バチなら、そのおみ足でケッてケッて、踏んずけてくだせぇ・・・
んなバカやってるとマジでバチあたりますがな。
観音様って、手を替え、姿を替えて苦しみの中にある人々に手を差し伸べて地獄から救う菩薩(ぼさつ)です。
そもそも神様には性別は存在しません。
男性でもあり女性でもあり、その他のものでもある、と言うことです。
人を救済するのに、自由自在、千変万化(せんぺんばんか)なんですね。
なので観音様を「女性」と決めて語るのはお門違いでは?
いや、間違いではないんですが・・・
冗談はさておき、ここ愛知県高浜市の観光スポット「観音寺」にある観音様の立像です「衣浦観音」と言います。
陶管製[注]でナント高さ8メートル(陶管製の観音像としては日本一)
さすがは、やきものの街を表明する高浜市だけのことはある。
この観音様を造ったのは鬼長さん。
(現在は株式会社「鬼長」、高浜市を代表する瓦の製造、販売元です)
[注]陶菅(とうかん)
・土管との違いは、土管は素焼きですが陶管は釉薬(ゆうやく)[注 1]をかけて焼いたもの。
・石炭灰、マンガン釉(ゆう)などが素材に使用される。
・自然素材のため、環境に優しい。
(この観音様、その顔立ちやお姿だけでなく環境にもお優しくていらっしゃいます。)
・耐薬品性とか耐食性にも優れているので、土壌環境が悪い所でも耐性がある。
[注 1]釉薬(ゆうやく)
・陶磁器の表面に付着したガラスの層。
・単に「うわぐすり」とも言う。
そこんトコロは、この観音寺から徒歩5分ほどのとこにある高浜市の観光スポット、(この高台のすぐ下です)
かわら美術館で詳しく分かるのでそちらを訪れてみて下さい。
もっとも8メートルって、観音様がお立ちの基壇(きだん)つまり台座を含めての高さなので、う~ん、ちょっとフライング気味か?
観音様自体の高さは4~5メートル位ですね?
まあそこはツッコマナイない方向で。
これだけの高さの立像を建立しようとするとコンクリートを使うのが定番だと思います。
ですが、観音様がお立ちの基壇(きだん)なるお立ち台がコンクリート製なので、観音様の芯の部分はコンクリート製かもです?
が、そこはそれ、やきものの街「高浜市」のプライドか「鬼長」さんのプライドか!?
全部コンクリートで造っちまったら、やきものの街、高浜市と「鬼長」の名が廃(すた)るっ!
と、言ったかどうかは知らんけど。
観音様の基壇(きだん)部分
基壇部分は周囲をグルッと一周することが出来ます。
基壇に10神将のレリーフがあるんだけど、金網がかぶせてあって各神将がどんなお姿をしてみえるのかとーってもわかり難くてザンネン。
なんで、こんな所に金網がっ!?
そだね~、例えばのはなし、
・盗難防止?(ノミやドリルでほじくって持ち去る?イヤ、そこまでやってたらバレるって)
・落書き防止?(夜中にヤンキーの連中がやって来て落書きする。いや、これも連中がワーワー、ギャーギャーやってたら通報するでしょ)
・盗難、落書きが過去にあった?
なのでは。
日本人って、臨在感(りんざいかん)ってのを強くもってますよね。
臨在感ってのは、目に見えなくてもそこに神様、仏様とか崇高な何者かが存在しているのではという感覚。
「ここに木(気)がある、石(意思)がある」みたいな感覚のことです。
ある自治体がゴミの不法投棄(ふほうとうき)が後を絶たず困り果てていたときに、その場所に小さな鳥居を設置したらゴミの不法投棄がピタッと治まったと言います。
ましてやここは、間違いなく仏様がおられるお寺の境内なんだから盗難や落書きみたいな不届きな行いをする輩(やから)はいないでしょ。
居たとしたら間違いなく天罰が降(くだ)ります。
基壇の中はどんなん?
基壇部分の手前にある火鉢の横を通って中に入ると、賽銭箱っ。
上に飾られてるのは、右が観音様、左は弁慶?大黒天?
更に入って半周ほどすると祠(ほこら)があります。
が、手前に柵が設けてあって正面には行けないので柵の前から拝んでね。
では次にこの「衣浦観音」様が建立されている「観音寺」の事をお話します。
そのビックリな由緒とは?
「衣浦観音」様が建立されてる「観音寺」さん、その由緒は非常に確かなものでした。
それでは、ここからはその由緒と建立された経緯についてお話します。
「観音寺」の本堂
ザックリですが入母屋づくりの屋根で唐破風がついてます。
いーですね、この如何にもお寺っ!てな感じの屋根が。
かなりカーブしている唐破風の屋根ですが趣があります。
で、こちらが本堂の中です。
「観音寺」の境内はこんな感じっ!
↓本堂の向かって左側にあるお堂は不動明王が祭られてます。
このお堂の左側にペットの供養塔があります。↓
日光東照宮や妻沼聖天山(めぬましょうでんざん)みたいに豪華絢爛で圧倒されるような神社、仏閣もいいですが、
「観音寺」のように、チイさくてひっそりと佇み、ここに居るとゆっくりと時間が過ぎて行くようなお寺も趣(おもむき)があって好きっやねん。
更にここ「観音寺」には、
この寺の境内には前記した
・桃花亭お高の墓碑(お高なんて女の人みたいな名前ですが、男です)
・ 一儚舎湖雪の墓←「よ、読めませんがな、誰?」
・石原茂兵衛の墓←「石原茂兵衛発行とある書物があることから、本の発行者?」
がある、
又「高浜町の墓塔研究」に記した無縁石になってあるが、当高浜としては珍しい宝篋印塔(ほうきょういんとう)の上部
即ち
宝珠(ほうじゅ)
受花(うけばな)
九輪(くりん)の残欠、
空輪(くうりん)の水煙(すいえん)が欠損しているが、
一石五輪がある。
ただ上に記した墓碑、お墓、 宝篋印塔は境内のどこに有るのかよく分からん。(^^;
高浜市「観音寺」の由緒等は高浜市立図書館「高浜市誌資料」第2集にここ「観音寺」の由緒が載ってます。
高浜市誌資料からの引用文(抜擢) ↓
観音寺は現在鎮西派浄土宗(ちんぜいはじょうどしゅう)の尼寺(あまでら)である。
創建(そうけん)は不明であるが、
元禄12年(1699)の古棟札(ふるむなふだ)に
奉中興当観音堂一宇(ほうちゅうこうとうかんのんどういちう)
発起頭(ほっきがしら)
・岩月彦三郎(いわつきひこさぶろう)
・杉浦半十郎(すぎうらはんじゅうろう)
・石原茂兵衛(いしはらもへえ)
・神谷伊右ェ門(かみやいえもん)
・三浦孫七郎(みうらまごしちろう)
大工
・亀崎一十(かめざきかずと?)
当中興鉄山一元上座(とうちゅうきょうてつざんいちげんかみざ???)
と記してあるところから衰微(すいび)かこれに近い状態の寺を中興(ちゅうこう)したのであろう。
昭和42年5月3日発行
編集者 高浜町誌編纂(へんさん)委員会
発行者 愛知県碧海郡高浜町
印刷者 神谷印刷所
高浜市誌資料からの引用文(抜擢) ↓
以前から禅宗(ぜんしゅう)であったかどうかわからぬが、この中興は臨済(りんざい)か曹洞(そうとう)か何れかのいわゆる禅宗寺(ぜんしゅうじ)で男僧の住持(じゅうじ)であった。
ー中略ー
「禅宗から浄土宗になったのはいつ頃か」
1.中興鉄山一元上座(ちゅうこうてつざんいちげんかみざ)
(第1代)
元文二丁巳(げんぶんにちょうみ)
十一月十三日亡(1737年)位牌も墓石も判明している・・・・・・禅宗
2.釈浄円禅定門(しゃくじょうえんぜんていもん)
(第2代)
明和二年乙酉(めいわにねんとり)
八月八日亡(1765年)位牌も墓石も判明している・・・・・・禅宗
3.法名釈潜亀神門(ほうみょうしゃくせんきしんもん)
(推定第3代か4代)位牌あるも記年なく墓石不明
4.推定第4代不明
5.〔梵字種子{ぼんじしゅじ}(キリーク)〕
法誉性覚了山法師(ほうそうせいかくりょうざんほうし)
(推定第5代)
文化三丙寅年(ぶんかさんひのえとらどし)
4月17日(1806年)位牌(いはい)あり墓石不明。
この観音寺の本尊仏(ほんそんぶつ)は聖観音菩薩 (しょうかんのんぼさつ)であるから梵字種子は「サ」でなければならぬと考えるに「キリーク」が書いてある。
「キリーク」は阿弥陀(あみだ)、如意輪観音 (にょいりんかんのん)、
千手観音(せんじゅかんのん)の種子と思う。
6.(古棟札)
文政六未年(ぶんせいろくひつじどし)4月上旬(1823年)
堂主滋誉海音(どうしゅじよかいね)
(推定第6代)
庄屋、森伊右ェ門、石川猶右ェ門(いしかわなおえもん)
7.(古棟札)
安政二卯(あんせいにうさぎ)4月上旬(1855年)
祷護山主察誉智音浄行尼(とうごさんしゅさつよちねんじょうぎょうに)
(推定第七代)
庄屋、井上次郎ェ門(いのうえじろうえもん)、岩月平八(いわつきへいはち)
・大正12年(1923年)の棟札の
庵主穏誉(あんしゅおんよ)
・昭和2年(1927年)の位牌
恵誉(けいよ)
・昭和30年の位牌
賢誉(けんよ)
と皆誉(ほまれ)の字が使用してある。
これから推考(すいこう)してこの了山法師の時、浄土宗の僧が入って住持となったのではないか、位牌の種子は阿弥陀如来の本尊が多い。
そのため阿弥陀の種子を頭に書して浄土宗になったことを示し、
法名に誉の字を用い、以後皆、誉の字を入れていることから、
了山法師の代から浄土宗になり推定第6代
滋誉海音から尼寺となったものと愚考(ぐこう)する。
(杉浦茂治記)
(以上は高浜町広報第八八号付録に発表したものを訂正増補した)
ようするに第1代の鉄山和尚さんが、ボッロボロになってた何かのお寺を再興して第5代の了山和尚さんから浄土宗になったってことですね。
2019年現在、尼寺かどうかはわかりません。
引用文の所々に読み仮名が入っていますが、資料にはそんなもん入ってません。
私の国語力を駆使して入れたのですが間違ってるかもです。
オイオイッ、これチゲー(違う)よっ!
ってなってたら教えて頂けると幸いです。
こんなに由緒あるお寺なんだからもっとお寺の方をアピールしてもいいのでは?
もちろん美人さん?イケメン?の観音様もいいですが。
「観音寺」の専用駐車場から見た図
↓かわら美術館の第1駐車場から
かわら美術館の第2駐車場からの上がり口にある「山門」について、
ー中略ー
観音西下海浜から観音像への上り口に古びた山門があるが、
天保九年(1838年)六月
高浜街中にある蓮乗院(れんじょういん)表門として、
始め建立されたものが、
明治三十七、八年頃該寺の裏門として移築された。
それを、近年昭和三十年再び、ここに移築されたものである。
尚ここに記したいのは、観音下森前渡しといって、
衣浦大橋架設前まで知多亀崎へ渡る船着き場であった。
ー中略ー
下図は移築に移築を重ねた山門と上がり口です。
柱の間から見える祠(ほこら)には森前地蔵尊が祭られてます。
「観音寺」への上がり口は
・「観音寺」専用駐車場から
・「かわら美術館」第1駐車場から
・「かわら美術館」第2駐車場から
合計3ヵ所あります。
森前渡、石柱
↓森前渡しという船着き場があったことを表す石柱
どうですか、このようにお寺はチイさくとも見所満載でしょ。
森前渡しという船着き場があったと言うことは、この高台のふもと辺りまで海だったってことですよね。
時代の流れでその佇まいや趣は大きく変わってしまいますが、決して変わらないものがここ「観音寺」にはあります。
そんなノスタルジック[注]な思いに浸ってみてはどうですか。
[注]遠い懐かしさを感じさせる、得がたいもの、
失われたものなどに対して、心惹かれ、思いを馳せ、
憧れや恋しさを抱くさまなどを意味する語。
それでは今回のまとめとしてどうぞ。
まとめ
愛知県高浜市にある「観音寺」の見所は、
・美人さん?の観音様の立像、陶管製の「衣浦観音」と呼ばれている
・全高約8メートル、観音像だけだと約4メートル
・制作会社は高浜市の瓦の製造、販売元「鬼長」
・基壇外周部分に10神将のレリーフがあり、基壇内部に祠がある
・「観音寺」自体の創建は不明だが、第1代の鉄山和尚のために古いお寺を再建した
・それまでは、禅宗であったが第5代の了山和尚から浄土宗となった
・こじんまりした、趣のある本堂
・本堂左側に祭られている不動明王
・ペットの供養塔
・上記の見所以外にも、山門
・森前地蔵
・観音下森前渡しをあらわす石柱
・桃花亭お高の墓碑
・一儚舎湖雪の墓
・石原茂兵衛の墓
・宝篋印塔の上部
その佇まいは小さいですが、確かな由緒と多くの人々に支えられて来た歴史をもつ「観音寺」さん。
その境内に立ち、高浜市の人々を優しい眼差しで見守る観音様。
ここで静かに鉄山法師や了山法師の時代に思いを馳せ、過ごしてみませんか。
佇まいこそ小さいですが、決して小さくはない思いが得られること間違いありません。
ぜひ一度訪れてみて下さい。
どうも最後までお付き合いして下さりありがとうございました。
ではまた、別の記事でお会いしましょう。
↓初の電子書籍出版です。ぜひ、読み放題でどうぞ。