歴史的にも貴重な通信機器は圧巻!!
↓10分の1の高さで残された記念鉄塔
今回の記事は「お散歩スケッチ街歩記」【注】で愛知県の刈谷市「依佐美通信所記念館」を紹介します。
先の大戦で、日米開戦の「ニイタカヤマノボレヒトフタハチマル」はこの送信所から発信されました。
「記念館」が造られた経緯や歴史、ここに展示されている貴重な送信機器を解説していきます。
【注】「街歩記」ってのは私の造語で、絵の素材探してアチコチ訪れた際の記録のことです。
改めまして、籏山隆志(はたやまたかし)といいます。
普段私はアクリル絵の具とか透明水彩絵の具を使って絵を描いています。
町の何気ない風景や古い店舗、古民家などなど。
このまま勤め人として人生終えるなんざ、まっぴらゴメンの助!とばかりに57歳のときからプロの画家を目指して奮闘してる自称画家Gさんです。
ではでは、ぜひ最後までお付き合いして下さい。
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日米開戦の司令暗号文はここから発信された!
↓アクセス
住所: 刈谷市高須町石山2-1
休館日: 月
月曜日が祝日の場合はその翌日、年末年始
利用料金:無料
アクセス:刈谷市公共施設連絡バス 小垣江・依佐美線「フローラルガーデンよさみ」バス停下車
駐車場:102台
お問い合せ先:0566-29-4330
公式サイト 刈谷市「依佐美送信所記念館」
この刈谷市「依佐美送信所記念館」は、鉄塔や送信局舎の内部の一部を整備。
2007年(平成19年)4月に「フローラルガーデンよさみ」内に開館しました。
元の「依佐美送信所」が造られた経緯。
明治から大正にかけて対外通信が盛んになって、大量の情報のスピーディーなやり取りが必要になったそうな。
ですがその当時日本は海底ケーブルによる有線電信のみで、その他の国際通信手段を持ってなかったんですね。
第一次大戦後に国際無線通信を整備することになり、対欧州向けに長波通信施設の建設計画が進められたんです。
なんで長波だったのかてーと、長波というのは海面下まで電波を届けることができるんですね。
だもんだから、太平洋戦争んときに日本海軍潜水艦との交流に重要視されました。
日米開戦の司令暗号文「ニイタカヤマノボレヒトフタハチマル」はこの送信所からも潜水艦へ発信されました。
カタカナで表記されてますが実際は「新高山登レ1208」と送信されてます。
「依佐美送信所」は1996年8月から鉄塔の解体が開始。
1997年に8基あった鉄塔全部が解体され、2006年には送信所が解体されました。
戦後は米軍に接収され、東西冷戦の終結によって1994年(平成6年)に日本に返還されました。
当時の送信施設の外観を再現して、すんげー貴重な機械遺産、産業遺産である通信機器が数多く展示されてます。
次の章でその一部を紹介します。
展示されてる通信機器は世界遺産級!
↓「依佐美送信所記念館」展示設備の一部
この「記念館」で展示されてる各送信機器ってのは90年も前の設備を原型のまま保存、展示してて、これは世界的にも珍しいんです。
前の章でも記述した、すんげー貴重な機械遺産、産業遺産である通信機器の価値は世界遺産級なんですね。
しっかしなんだな~、世界遺産とか機械遺産とかはどーでもいいんだが、このクロクロに塗られたモーターとか発電機が、いやはやなんともあれですな~、うえっへっへっへっ。
ああっ!?もうっ!まったく!!Gさんにゃ猫に小判だぜ💢
けどスッゴイよねー、この機械類が唸り上げて動いてるとこなんて壮観だったろうね。
こうやって静かに佇んでる姿を目の前にするだけでもゾクゾクするねー、
うえっへっへっへっ。
おいおい希子、お前もかよ!?💦
記事や写真だけじゃこの迫力は伝わんないです。
実物を見ると想定外の発見があるんだなーこれが。
「記念館」に入って実物を目の当たりにすると、第一印象は、「おおーっ、デカっ!」だね。
でもって色が真っ黒だもんだから余計に迫力があんだね~。
今回の「依佐美送信所記念館」ん中に産業遺産として残っている設備類の、「送信設備」は2006年に「送信所」が解体された後2007年に「記念館」に移設されたものです。
1950年「在日米国海軍」に接収された後「送信装置」は薄い青色、「高周波用配管」は赤、黄、銀色に塗られました。
ちょこっと修理しただけで「送信所」から「記念館」に移設したもんだから、あっちこっち経年劣化による傷みが見られたんですね。
でもって、「記念館」リニューアルん時に
- 「送信装置」は黒色
- 「高周波用配管」は銀色
- 紫外線による劣化を防止するために紫外線対策
を施したんですね。
次の章で、そんなこんなの機械、設備類を見て感じたこと書いとくんでどうぞ、
小さくなっても大きな価値の鉄塔は必見です。
この「記念館」来る前は、何か面白いの?、んなモン金使って作る意味があるんかい、なんて思ってました。
そりゃまあ確かに送信所って日常生活で目に見えて必要だなって思いません。
だけど電波って目には見えないけど、すんげー大事なモノです。
だって、電波が無かったらスマホも使え無いでしょ?
通信ってコミュニケーションの手段だよね。
しかも電波によって世界中の人達と一瞬で繋がることが出来るってすげーなって思いました。
昭和の生まれで、根っからのアナログ人間の私でも、固定電話だけの生活に戻ることなんて出来まへんがな。
ここ訪れてみて色ーんな方向からモノ見て見るきっかけになりました。
そのモノの良し悪しってどうしても自分の物差しになっちゃうんだよね。
私が小学生ん時に鉄塔の実物を見たんけど、高さ250㍍は伊達じゃなかったよ。
今じゃGPSがあるんで有り得んかも知れんけど、
1972年頃、今から50年位前に西尾市で漁師やってた親戚のオジさんが
「夜暗いうちに漁出とって、三河湾で自分の位置とか向きが分からんくなった時、この無線が目印になってどえりゃー助かったんだがや」
なんて話を聞いたことがあります。
通信施設としてだけじゃ無くてそーいうところでも市民生活に密着してたんですね。
現在はかつての10分の1になった高さ25㍍の鉄塔と、先端部分が記念館の正面に建てられてます。
もはや実物を見ることは叶わないんでその迫力が伝わんないのが残念ですが、
へえ~ぇ!250㍍上にあった鉄塔の先っちょってこんな風になってたんだんね。
おおっ!驚きだぜ!!実際に建ってた時は双眼鏡でも使わんと見れんかったもんな~。
↓鉄塔の先端部分
でもって下の画像が高さ250㍍にもなる鉄塔を支え続けた台座だよ。
正式な名前は「底部絶縁球状承軸式台座」って言うんだ。
上んところが球状になってるんは、鉄塔がめっちゃ強い風で横揺れしても、その荷重を一点で受けて、下にある台座にその力を均等に分散させるためのものなんだ。
ひえぇぇぇぇ~💦
鉄塔の重量が250㌧でステー線の重量が150㌧だってよ。
それを、こーんなちっぽけな台座で支えてたなんてビックリだぜ!
↓鉄塔台座
ネットやガイドブック、この記事からだけじゃ伝わんないから、実物見てみるのをオススメするよ。
そだねー、百聞は一見にしかずって思うな~。
自分ん中で分かったつもり、見たつもりになって自己完結しちゃうとすんごい損すると思うよ。
ではでは、今回のあとがきとしときます。
あとがき
刈谷市「依佐美送信所記念館」は、
鉄塔や送信局舎の内部の一部を整備し、2007年(平成19年)4月にフローラルガーデンよさみ内に開館しました。
「依佐美送信所」が造られた経緯は、明治から大正にかけて対外通信が盛んになり、大量の情報のスピーディーなやり取りが必要になります。
日本は海底ケーブルによる有線電信のみで、その他の国際通信手段を持っていませんでした。
第一次大戦後に国際無線通信を整備することになり、対欧州向けに長波通信施設の建設計画が進められました。
なぜ長波だったのか?
長波というのは海面下まで電波を届けることができるので、太平洋戦争時に日本海軍潜水艦との交流に重要視されたんです。
日米開戦の司令暗号文「ニイタカヤマノボレヒトフタハチマル」はこの送信所からも潜水艦へ発信されました。
カタカナで表記されてるが実際の送信文は「新高山登レ1208」とされています。
「依佐美送信所」は1996年8月から鉄塔の解体が開始。
1997年に8基あった鉄塔全部が解体され、2006年には送信所が解体されました。
その解体工事の最中(さなか)、1996年8月29日!
200㍍まで解体が進んでいた8号鉄塔が、鉄塔を支持するワイヤー切れてバランスを崩し倒壊事故が発生しました。
その時は死者1名、負傷者4名という痛ましい事故になってしまいました。
戦後は米軍に接収され、東西冷戦の終結によって1994年(平成6年)に日本に返還されました。
当時の送信施設の外観を再現して貴重な機械遺産、産業遺産である通信機器が数多く展示されいます。
今回は愛知県刈谷市にある「依佐美送信所記念館」
わりかしメジャーな「フローラルガーデンよさみ」の片隅にあって、地味な印象を与えてますが、来て、見て、その迫力にビックリしますよ。
そこのあなたも、ぜひ一度体験してみて下さいね。
どうも最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
ではでは、また別のところでお会いしましょう。
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