日本文学史の中で輝く宮城道雄の足跡をたどる旅。
刈谷市「宮城道雄供養塔」を解説します。
- 宮城道雄って誰?
- 何で亡くなったの?
- どんなことを残したの?
あなたは宮城道雄ってご存知ですか?
お正月になると必ず耳にする楽曲「春の海」の作曲者です。
ここ刈谷市に宮城道雄に関する施設が存在します。
生誕地の碑でもなく、墓標でも有りません。
ちなみに「生誕地の碑」は、
神戸の旧居留地58番地(現・三井住友銀行神戸本部ビル東側)にあります。
「墓所」は東京都大東区の中谷霊園で、
東京都新宿区中町に「宮城道雄記念館」が建ってます。
ここは、宮城道雄が亡くなる原因となった列車からの転落地を示す施設「宮城道雄供養塔」です。
残念ながら観光案内にも載らないマイナーな観光スポットになってます。
歴史に名を残す偉人の供養塔なんだから、
駅前や近くの商業施設に観光案内版を置くとかして、
もう少し宣伝しても良いのではと思います。
では、どのような見所なのか解説して行きますので、
ぜひ最後までお付き合いして下さい。
※敬称は省略させて頂いてます。
↓この記事を書いたのは、
60歳からプロの画家をしている画家Gさんこと籏山 隆志(はたやま たかし)です。
30歳のときからプロの絵描きを目指していたんですが、
40歳のときに、絵描きじゃ喰えんっ、って挫折。
それ以来10年以上、自堕落な生き方してました。
しかーしこのまま人生終わって委員会?
とばかりに60歳の定年を機に絵描き欲が再燃。
複業でサラリーマンやりながらの活動で、
突っ走ってます。
そんな画家人生の中で、あがいて、もがいて、のたうち回りながらでも
・乗り越えてきたこと
・絵に関すること
・お散歩スケッチで見つけたこと
などなどをお伝えします。
供養塔が語る宮城道雄の作品の栄光と哀しみ。
刈谷市「宮城道雄供養塔」はこんなところです。
住所:愛知県刈谷市神田町3-25
アクセス:JR「刈谷」駅 下車 徒歩10分
駐車場:刈谷市交通児童遊園駐車場
(無料)
土日祝、レジャーシーズンは、
臨時駐車場も含めて
満車となる事があります。
満車の場合、マップ上の
「市営 神田駐車場」
「名鉄 協商パーキング刈谷南口」
(いずれも有料)を使います。
営業時間:営業時間と言っても公園ですの
で24時間開いてます。
ただ、閑静な住宅街にあるので
夜間に訪れるのはご遠慮して下さ
い。
問い合わせ先:刈谷市役所文化振興課 0566-62-1037
では園内を見て行きましょう。
園内案内板
ここは宮城道雄が列車から転落をした場所の近くです。
関西方面に演奏旅行のため急行列車「銀河」乗ってる時、
刈谷駅の東でこの列車から転落しました。
午前3:30頃、現場を通りかかった下り貨物列車の田中二三機関士から
「三河線のガード付近に轢死体らしきものを見た」
という紙を大府駅に落として連絡をしたんです。
その一報を受け現場に向かった刈谷駅の職員に救助され、
豊田病院(現・刈谷総合病院)へと搬送されたんですが・・・。
搬入されて手術時には意識があり、大小6ヶ所の裂傷で、なんと25針も縫う大怪我でした。
その後容態が急変し、7:15に病院で死亡されました。
享年62歳。
当時の急行「銀河」は東海道本線全線電化の直前で、デッキに開放型のドアがある列車だったんですね。
で、連結される寝台列車も車両の両側にデッキのある両デッキ車でした。
宮城道雄は盲目だったために、トイレのドアと乗降口を間違えたという可能性が大きいです。
女優の高峰秀子も
「内田先生【注】も書かれているように、私もあんなに『カンの悪い盲人』に出会ったのは初めてだった」
と記しています。
【注】宮城道雄と親交のあった作家・内田百閒(うちだひゃっけん)
その内田百閒は、親友宮城道雄の死が相当堪(こた)えたんでしょう、
この供養塔には建てられてから2年間訪問することができませんでした。
この供養塔は昭和32年5月に
・刈谷市
・宮城会
・日本盲人会
の三者により転落場所近くのこの場所に建てられました。
お地蔵様
正面に交通守護とあり、
背後に
昭和32年5月建之 宮城貞子
の文字が確認できます。
石柱標識
正面に「楽聖宮城道雄先生供養塔」と刻まれた石柱がありますが、
こちらは供養塔ではなく標識です。
左手に「日本芸術院会員豊道慶中書」とあります。
豊道慶中(ぶんどうけいちゅう)
・本名豊道春海(ぶんどうしゅんかい)と言い、
1878年~1970年の明治から昭和にかけての書家で僧でもある。
・明治11年9月1日生まれ。
・23年東京の天台宗華徳院住職に就任。
・24年より書を西川春洞に学び、日本書道作振会、泰東書道院創立の中心人物となる。
・昭和22年学術院会員、日展書道部門の開設、日本書道連盟の結成に尽くした。
・42年文化功労者。
・昭和45年9月26日死去。享年92歳。栃木県出身。
・幼名は川上寅吉(かわかみとらきち)
・法名は慶中(けいちゅう)
・別名に
天門海翁(てんもんかいおう)、
龍渓(りゅうこく)、
谷門道人(こくもんどうじん)がある。
裏側に「昭和三十二年五月建之」
「刈谷市 宮城会 日本盲人会」
と、あるのですが木が邪魔で掻き分けないと見えません。
その左下に岡崎市石研作とありますが、
2022年現在石材屋「石研」なるものは岡崎市には存在しません。
なので「業者」か?「作者」か?何を示したものか不明です。
余談ですが、愛知県岡崎市は石工品が特産品です。
岡崎市は良質な御影石(みかげいし)の産地で、日本3大石品生産地
・愛知県岡崎市
・香川県庵治(あじ)町、牟礼(むれ)町
・茨木県真壁町
の1つに数えられてます。
供養塔
こちらが供養塔で、
三重宝塔の一番下を伸ばしそこに文字を浮き彫りにしてあります。
「楽聖宮城道雄供養塔」と刻まれており上部に琴を奏でる神様?が浮き彫りにされてます。
供養塔の左側には、笛を奏でる天女のレリーフがあり、その下に「水の変態」と縦に刻まれた文字と、その背景に点字が一面に刻まれてます。
宮城道雄が14歳の時作曲した処女作
「水の変態」の点字楽譜です。
石碑に楽譜が刻まれているものは結構ありますが、点字楽譜が刻まれているものは非常に珍しいです。
台座には先の石柱標識と同じく
「塔銘 日本芸術院会員 豊道慶中書」とあります。
供養塔の右側にも楽譜が刻まれており、こちらは一般的な五線譜で、
ここの曲目は名曲「春の海」です。
そこのあなたも正月になると必ず耳にする名曲です。
台座の背面には標識と同じ
「昭和三十二年建之 刈谷市 宮城会 日本盲人会」
とあります。
目が不自由な方への案内板
銅板のレリーフに、点字によって「宮城道雄供養塔」の案内板が建てられています。
園内の様子
園内にはベンチも設置されてますが、
左手生け垣の向こう側と、右手柵の向こう側は一般的な人家なのであまり多人数で訪れ大きな声での会話は慎んで下さい。
ベンチが設置された広場から左手奥へ向うこともできます。
入口手前に石柱があり、文字が刻まれているのですが何と書かれているのか不明です。
先の石柱横を通って行くと謎の空き地があります。
↓供養塔後ろから謎の空き地を臨む
↓出入り口から園内を望む
道路から園内へのアプローチ部分は芝生と石畳になってます。
それでは次の章で宮城道雄がどんな人物だったのかお伝えします。
文学の聖地で感じる宮城道雄の魂の息吹。
宮城道雄とはどんな人物だったのか?
・明治27年(1984年)4月7日に誕生。
・生後200日で目の病気にかかる。
・4歳の時、母親と生き別れ、祖母ミネに育てられる。
・宮城道雄の家族についての記述は殆どありません。
「家族が多くて、養うのが大変だった」とあるが、
兄弟姉妹はその後どうなったのかよく分かっていない。
・宮城道雄の姪でもある人間国宝・宮城喜代子は、
弟子として一家族として入門後37年間にわたって師・宮城道雄に寄り添った。
妹・宮城数江と共に、宮城道雄の楽曲を最も良く理解し、演奏を体現したと残されている。
・8歳で失明宣言を受け、
生田流二代中島検校(なかしまけんぎょう)に入門。
・11歳で三代中島検校より免許皆伝。
師匠である「中島」の一文字を名乗ることを許され、芸名「中菅道雄」となる。
・13歳、家庭の事情で朝鮮の仁川(現在の韓国・インチョン)に渡り、昼間は箏、夜は尺八を教えて一家を支える事になる。
・14歳で処女作「水の変態」を作曲。
この曲で伊藤博文に認められて、博文は宮城道雄を上京させ後援することを約束したのですが、伊藤博文は暗殺されてしまいこの約束は果たされることがなかった。
・京城(今のソウル)に進出した宮城道雄は結婚によって「宮城姓」を名乗る。
・22歳の若さでこの道の最高位である大検校となり当時の箏曲界の覇者となる。
・大正8年に、本郷春木町にある中央会堂で念願である第一回作品発表会を開催し、
若干25歳にして作曲家としても本格的にデビュー。
さらに、
自らの新しい音楽世界開拓のため宮城道雄は日本の古典的楽器の改良や新しい楽器の開発を精力的に行ったんですね。
・十七弦
17本の弦を持ち低音用楽器として考案された大型の箏。
・八十弦
箏の特性を生かして、広く和洋の音楽が奏でられる様に考案された80本もの弦をを持つ箏。
・短琴(たんごと)
箏の大衆化及び簡略化を図って考案された小型の箏。
・大胡弓(だいこきゅう)
宮城道雄が合奏できる胡弓をということで考案された大型の胡弓で、宮城胡弓とも呼ばれています。
他の楽器と演奏するときの音量増加と音域の拡大を図って作られております。
胡弓とは、日本で唯一の擦弦(さつげん)楽器で、花梨(かりん)や紅木(こうき)で作られており、弓は馬のシッポを使います。
古典の箏曲をこよなく愛した宮城道雄は、
繊細、緻密、推進力のある他に抜きん出た名演奏により古典箏曲を現代に蘇らせる事に成功し、
天才筝曲家としての名を手にしました。
現在でもその成果はCDやYoutubeなどの録音資料で確かめる事が出来ます。
↓宮城道雄は門人たちの指導に当たるばかりではありませんでした。
・昭和5年(1930年)から東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)でも教授することになる。
・五線譜、弦名譜をを積極的に活用し、
初心者用の箏や三味線のための教則本を執筆、出版し、
ラジオによる箏曲講習等、新しい邦楽教育を実践。
・西洋音楽の要素を邦楽に取り入れる事によって、
邦楽の活性化を図り、新しい音楽世界を開拓し続けた。
・「新・日本音楽」運動と称されるようになり現代邦楽発展のためのきっかけになる。
・昭和7年(1932年)フランスの女流ヴァイオリニスト、
ルネ・シュメーと「春の海」を協演。
・日本、アメリカ、フランスでレコードが発売され世界的な名声を得た。
それでは今回のあとがきとして、
「宮城道雄供養塔」遺されたメッセージとその意味?!
愛知県刈谷市にある鎮魂のスポット!
あとがき
愛知県刈谷市にある「宮城道雄供養塔」
住所:愛知県刈谷市神田町3-25
アクセス:JR「刈谷」駅下車徒歩10分
駐車場:刈谷市交通児童遊園駐車場(無料)
満車の場合
「市営 神田駐車場」
「名鉄 協商パーキング刈谷南口」
「市営神田駐車場」
「名鉄協商パーキング刈谷南口」
(いずれも有料)
営業時間:公園なので24時間開いてます。
お問い合わせ:刈谷市役所文化振興課 0566-62-1037
「宮城道雄供養塔」園内には
・案内板
・看板代わりの石柱
・お地蔵様
・供養塔
「水の変態」点字楽譜による表示
「春の海」五線譜による表示
・目が不自由な方への案内板(点字による表示)
刈谷市「宮城道雄供養塔」
関西での演奏に思いを馳せ、心地よい緊張感とまだ見ぬお客様との出会いに心を躍らせていたであろう宮城道雄。
まさかこの地で我が身が果てることになろうとは彼自身も想像すらしてなかったに違いありません。
その泣くに泣けない無念さを思うと心が押し潰されそうです。
全盲であるがゆえのハンデを背負いながら後進達の道標となり、己の技に磨きをかけ邁進してきた宮城道雄。
そんな宮城道雄に向け鎮魂の言葉に変えて筆を置きます。
合掌。
どうも最後まで読んで頂き本当にありがとうございました。
ではまた別の所でお会いしましょう。